ぴよぴよ心理学者

どこから、ではなく、どこへ。

解釈

友人から悩み相談の電話。

話を聞いていて感じたのは、

「同じことを体験しても、人によって解釈が違う」

ということ。

 

 

 

 

例えば、恋人に送る「愛してるよ」というLINEを上司に送ってしまったとき。

 

どうしよう…明日から会社に行けない。

上司も怒っているだろうし、他の人はなんて思うだろうか。

社会人失格だな…

 

と捉えるのか、

 

やらかしてしまったけど、なかったことにはできないし、

丁寧に上司に謝っておこう。

そこまでひどいことにはならないだろう。

大丈夫。

 

と捉えるのか。

 

 

 

 

 

 

事実は同じでも、それに対する解釈は人によって異なる。

程度の差は、歴然としている。

ちょっと前からレジリエンスについての自己啓発本がたくさん出版されているけれど、この解釈の仕方の違いと重なる部分も多々あると思う。

解釈の仕方によって、生きづらくも、生きやすくもなるんだよな。

 

 

教育とは

教育とはなにか。

昨年度大学院に入学してから、ずっと考えていることの一つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学時代は教員養成系の教育学部だったため、私の周りには教員志望が多かった。

「今まで出会った先生に憧れて」

「学校が好きだったから」

「人に教えるのが好きだったから」

そんな理由を持っている人が大半だった。

もちろん、少数ではあるが逆の人もいた。

「学校があまり好きではなかったから、もう少し楽しい学校にしたい」

「嫌いな担任のおかげで逆に教育の大切さに気づいたから」

どちらにしろ、高校生の段階で進路を決めるには、十分な理由だと考えられていたのではないか。

そして進路面談をした先生は、その生徒が教師になることを応援したはずである。

現にそうして、私を含めた学生たちは大学生になっていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どれだけの先生が真剣に考えた経験があるだろう。

教育とはなにか。

 

一歩間違えば、洗脳である。

私達が、社会が、必要とする人間に洗脳していくのである。

それなくしては、社会が機能しなくなるし、お互いに生き辛い世の中になるのは分かる。

でも、じゃあ、どこからが洗脳で、どこまでが教育なのだろうか。

 

そして、先生が子どもに与える影響の大きさ、責任の重さは一体どれほどだろうか。

私はそれを考えたとき、恐ろしい仕事だと思った。

現に自分の中にも、先生からもらった言葉は刻まれている。

その子どもにとってポジティブな影響だけではないだろう。

トラウマになるようなことも含まれる。

一言一句に責任をもたなければならない。

それでも失敗することもある。

一体、何ができるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

答えは見つからないけれど、こうやって真剣に考え、先生同士がその考えたことを共有することが、ものすごく大切なんじゃないだろうか。

教員の働き方改革と言われ始めて数年が経ったけれど、この意識なく業務削減した結果、学校には何が残るんだろうか。

 

 

片足だけ突っ込んでみる

私は教育心理学が専門なのだけれど

大学院では他の分野の授業も受講することができる

だから後期は教育哲学の授業をいくつか受講している

 

これが

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すごく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おもしろい笑

 

 

 

 

 

 

 

哲学とか歴史とかややこしいなぁ分かりにくいなぁと

どこかで思っていたのかもしれない

ギャップが大きくあったのかも

おもしろくないんだろうなっていう自分の認識が

 

その授業は10人ほどの授業で

本を読んでひたすらに言葉を大切にしながら語っていく

読んでみて感じたこと

主張に納得がいかない部分

自分の知見と合わせるとこんなことが言えるのではないか

サロンのような授業である

 

面白いと感じたのは

もともとその10人と顔見知りであることも大きいかもしれない

自分自身の考えを語るときにみんなが耳を傾けてくれる

批判するためじゃなくて

一緒に考えるため

だから変に緊張もしないし

見栄を張らなくてもいい

話している途中に自分の思考がまとまらなくなって

「分からなくなりました」って言える空気

相手が言っている内容が分からなければ

「もう一回聞きたい」って言える温かさ

そんなもので教室が満ちている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな空間でこんな教室で学べたら

学校ってもっと楽しいんじゃないかな

子どもも先生も

 

 

 

時間やカリキュラムやテストの点に縛られて

供に学ぶっていうことの楽しさを

先生は忘れてないか

子どもはそもそも楽しさを知らないんじゃないか

そんなことを考えた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の専門分野をもちたい

と、強く思っているけれど

こんなふうに片足だけ突っ込んでみると

世界が開けて新しい見方ができることもある

それができる大人になりたい

きっとそれができれば自分のことも他人のことも

広い心で受け入れることができる

知識ばかりあっても意味なんかないという時代だけれど

それを手にする過程で

人とかかわり共有すること

これが必要とされているんじゃないかと思うんだよなぁ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心理学者のたまご

初投稿。


私がブログを始めようと思った理由は2つあって、コツコツこのブログでその2つを叶えていこうと思う。





一つは、心理学の知見を広く発信する場をつくりたいと思ったこと。


私は現在、心理学者のたまごとして、先生方に指導されて学んでいる身なんだけれど、先生方は広く発信する場をあまり持ち合わせていないなぁと日々感じている。


それは先生たちの問題というより、アカデミックな世界の問題といった方がいいかもしれない。


研究したことは、専門学会で発表したり、学術雑誌に載せないと、先生たちの業績にならないのである。


そりゃ好きで研究してるかもしれないけれど、業績がないとそのポスト、仕事をもらえなくて、生きていけなくなる。研究とお金の問題ってかなり密接。実際に生活がままならなくて、アカデミックな世界から去る人もたくさんいるのだ。システム上どうしても、どのように発信するかまで深く考える余裕が無いようになってしまっていると思う。


ちょっと話はずれるけれど、大学の先生の世間からのイメージって、変人とよく言われるが...実際はかなりの変人揃いだと思う笑


でもそれって当たり前で、何かに突き抜けているということは、突き抜けていない人からみると、「なんであんな部分が突き抜けてんの?」ってなるわけで。


でもだからこそ、先生個人の見方とか考え方も含めて、研究者の視点ってすごく面白い。自分にはなかった世界の見方をしているから。そういう世界の見方をもっと広く一般に発信してほしいなぁって思う。専門家同士の狭い世界じゃなく、誰にでもその研究の知見が届くような発信の仕方をして欲しい。


ということで、何年後か分からないけれど笑、自分が研究者になった時の発信の場を持ちたいなと。






二つ目は、自分の備忘録として。


イデアとか、自分なりの考えって、いきなり浮かんで、ふっと消えていく。


自転車を漕いでいる時とか、風呂上がりの牛乳タイムとか、そんな時にふっと降りてくる。


面白いかも!


...と思っても、私の場合、あんまり覚えていられないのだ。世紀の発見かも!と思っても、寝たら忘れる笑


ということで、ブログとして自分の頭の中を文章にして綴ることを毎日の習慣にしたい。


そうすれば、日々浮かんだひらめきを残すことができるからだ。





卵から孵化することを夢見て、いずれはニワトリになるのを目標に、コツコツやっていきたい。